10年経って知った同級生の死。
2年ぐらい前から断捨離の1つとして書類や本などスキャンしては、原本の方を捨てていくという作業をしています。
大昔の手紙や家電品の説明書、病院関係の書類など、相当スキャンしてきました。その一環として押し入れを片付けておりましたら、高校時代の「閉校(へいこう)記念誌」という、豪華な本が出てきました。
その名の通り、高校が閉校すなわち廃校になるというので発行された記念誌です。
自分は高校時代、市街地から10km以上、山奥に入った高校に通っていました。市街地からスクールバスが出ていましたのでそれで通っていました。
今から10年前の2014年、その高校の同窓会の方から連絡が来まして、生徒不足で高校が閉校になりますので、高校の歴史や卒業生の名簿を兼ねた閉校記念誌を出版しますので買いませんかという連絡でした。
確か何千円かしたと思いますが、その時買ったものです。
久しぶりに手に取ってパラパラと見てみると、自分が卒業した年には3年生は203名となっておりましたが、閉校する最後の年の卒業生は30名と書いてありました。
一つの高校の3年生が30人しかいないとは、これはやはり閉校になるような状態でしょうね。それでこの高校は廃墟になったかというとそうではありません。
建物はそのままで別の高校に変わりました。自分が通っていた当時、この高校は学力的にはそんな大層なレベルではありませんでしたが、ふもとの市街地に、この市内の一番の進学校がありまして、その進学校の山奥の中の「分校」として生まれ変わりました。ですから建物はそのままで高校の名前が変わったわけです。「〇〇高校分校」となりました。
しかしやはり山奥にあったというのが致命的なんでしょうか。この進学校の分校として生まれ変わったその高校も、おととしぐらいに閉校となりました。ですからこの高校は、2回閉校になったわけです。
この時は地元の新聞社がニュースとして取り上げていましたが、最後の卒業生は3人でした。
この3人が卒業した時点で生徒が0になるということは、もう2年生や1年生は存在していなかったというか、募集しなかったんでしょうね。
しかしこの建物で生徒が3人とはすごい状態だったんですね。写真は地元の新聞で閉校のニュースが載った時に撮りに行ったものです。
写真を撮ったのは日曜日でしたが、車が何台も停まっていました。駐車場として使われているんですかね。
何十年かぶりに訪れた母校でしたが、こういった形で見に来ることになるとは寂しいものがあります。今度こそ完全に廃墟となるようです。
この閉校記念誌を見ていましたら、卒業生の住所や、分かる限りの勤務先が書いてありまして、それぞれのクラスの名簿の一番下に「逝去(せいきょ)」という欄がありました。
逝去すなわち亡くなった人ですね。自分のクラスで1人、そこに名前が書かれている人がいました。
クラスで唯一のツッパリ(今はツッパリという言葉は使わないのかもしれませんが)でして、リーゼントにして教室の中でも時々喧嘩をして、廊下を後ろから走ってきては人の頭をパーンと殴って走って逃げたりとか、学校に武器を持ってきたり漫画を持ってきたり、人の弁当をこっそり昼前に食ったりとか、悪さをしていたという印象が強いのですが、今思い出すにクラスの中で一番イキが良かったというか元気があった生徒でした。
その彼が1人だけが亡くなっていたとは。
「えー!! あいつ死んだの!?」
名前を見てびっくりしました。
一番元気そうだったのに、人間とは分からないものですね。2014年の時点ですでに亡くなっていたということは40代くらいで亡くなったんでしょうか。
自分が卒業したのは昭和57年で、先ほども書きましたが卒業生は203名でした。その翌年である昭和58年卒業は145名となっていますから、この頃から生徒の減少は始まっていたんですね。
果たして自分は何歳まで生きられるのか分かりませんが、会社で自分と随分と親しかった人が2人と、トレーニングジムで親しかった人が1人、合計3人ほどが63歳で亡くなっています。
ですから自分にとって63歳というのはちょっと特別な年でして、あと何年かすればその年になりますが、結構怖いものがあります。
1人は癌で闘病の末に亡くなりましたが、2人はついさっきまで元気だったのに突然の心筋梗塞で突然死しました。ひょっとしたら自分もその年で突然死するかも、という意識はやはりあります。
ある程度歳を取ってくると、周りの人間から、入院した病気になった手術した亡くなった、そういった話を非常によく聞くようになります。
寿命は運命だと思ってますが、自分がどうなるのかは誰にも分かりませんね。現在まで何とか生きていることに感謝です。